モンゴル旅行記 (2000年8月)

2000年夏、モンゴル旅行を企画しました。

参加して下さった方々には満足頂けたと自負しております。

ツアー内容

2000年という記念すべき年にモンゴルヘの旅を企画致しました。
観光旅行では味わえない現地遊牧民の人達と共に過ごすユニークで盛り沢山のプログラムを用意しております。新しい世紀のライフスタイルをさぐるヒントになればと願っております。

A コース : フェルト作家 「坂田ルツ子」 と行くモンゴル
日 程 2000年8月2日(水)~8月9日(水)、 8日間、 関空発着
スケジュール ウランバートル(2泊)~ウランバートル南西約350km・ウブルハンガイ県・
ブルド(遊牧民のゲルで4泊)~ウランバートル(1泊)
内 容 ★昨年実施して好評を頂いたツア―です。ブルドで伝統的なフェルト作り、
 手工芸の見学(今年は参加者の皆さんにもフェルト作りに参加していただけるよう
 交渉中)、乗馬、馬乳酒作り、ミニナーダム見学、古都カラコルムヘの1日観光etc.
★モンゴルのフェルト作家「バヤンドウーレン」女史との交流
★モンゴル受入先: 「ツェベクマ」 一家
B コース : 陶芸家 「梅棹マヤオ」 と行くモンゴル遊牧体験ツア-
日 程 2000年8月12日(土)~8月19日(土)、 8日間、 関空発着
スケジュール ウランバートルの北西約20・ハットハーンの遊牧民のゲル6泊(滞在中,中央県
マンチルの陶芸家の工房を訪問)~ウランバートル(1泊)
内 容 ★遊牧民の生活を満喫してください。 ゲルの組み立て、乗馬、馬でトレッキング、
 乳搾り・馬乳酒作り体験、ミニナーダム見学、馬頭琴・ホーミーの草原コンサート、
 砂丘見学・川辺でのバーベキュー、キャンプファイヤーetc.
 勿論何もしないで草原で一日中寝ころがっていてもオーケーです。
★モンゴル受入先: 「ジャザク」 一家

モンゴル・フェルト紀行

ギャラリーストラッセ 飯島路子

 私は2000年にモンゴル・フェルトの旅を企画いたしました。そのきっかけですがモンゴルに最初に行ったことから始まります。

 最初のモンゴル訪問は、あの1995年1月に起きた阪神・淡路大震災の年でした。私のギャラリーがあり在住地でもある兵庫県西宮市も神戸と同じように震災で大きな被害にあいました。建物の崩壊、道路の陥没、高速道路や阪急電車高架線の落下等々想像を絶するものでした。ギャラリーも半壊にはなりましたが私は幸い怪我もなく元気だったので近所の避難所になっている小学校で炊きだしの手伝いをしていました。仕事はいつ再開できるか見当もつかずにいました。そんなとき知人がモンゴル文化交流の旅に誘ってくれたのです。

 私は即「行く」と返事をしたもののモンゴルのことは何も知らなかったのです。もちろん中国のモンゴル自治区が内モンゴルと呼ばれモンゴル人民共和国が民主化され「モンゴル国」になり外モンゴルと呼ばれてることも。

 それからしばらくした1995年6月、私はモンゴルの草原に立っていました。何処までも広がる草の海、地平線、ハーブの香漂う心地よい風、美味しそうに草を食べている羊や山羊、牛の群。時折馬にまたがった少年が手を振って駆け抜けていきます。空を見上げれば南は雨、北は晴れ、西は曇り、東にはダブルの虹が・・といったような全ての天気図がそこにあったりして、自分が今ココにいるのが夢ではないかと疑うほどでした。人間が作り出したもの全てが崩壊した西宮とのギャップは大きなものでした。

 「あー、ここには何もない、でも全てが有るなあ」何もないとは失礼な表現ですが遊牧民の人々の生活を観てるとそのシンプルさには驚かされます。遊牧民は移動をする生活から必要最小限のもの以外持たないのです。震災で多くの物をなくしたはずなのに、家の中はいつしか物があふれようとしている。その差に「何もない」と思わず出た言葉でした。


日本・モンゴル、フェルト作家の交流の旅

 モンゴル国について少し説明します。位置的には中国とロシヤの間にあります。国土面積は1,566,500平kmで日本の約4倍、人口は241万人、人口密度はわずか1.3人。遊牧民は人口の1/3以上います。
首都はウランバートル。そしてここに、なんと全人口の4割近くの65万人もの人が住んでいます。ウランバートルの標高は1351m、平均気温7月は17度ですが、1月は-26.1度にもなります。年間降雨量233mmです。言語はモンゴル語。通貨はトゥグリク(Tg)で去年は1US$=1000Tg、5年前訪れたときは1US$=500Tgだったことからもすごいインフレであることが分かります。

 遊牧民の家ゲルについてお話しします。日本人はパオと言った方がお分かりになる方が多いとは思いますが、パオと呼ぶのは中国の人が肉まんに似ているということから使っている呼び方で、モンゴル人はゲルと呼びます。ゲルの材料は主に木とフェルトから出来ています。木でゲルの骨組みを組み立てフェルトで覆います。ゲルの組立は4~5人で1時間もかかりません。円形のゲルの中心には薪ストーブがあり南に面した入り口から右手が女の座で調理器具、ベットが置かれ左の男の座には馬具、武器、馬乳酒作りの道具、ベットが置かれます。中央奥は仏壇(チベット仏教)の場所です。ざっと簡単に言うとこんな風になっています。便所はありません。用足しは草原でします。

 最初のモンゴル訪問はナーダム(7/11の革命記念日に開かれる国を上げてのお祭り。競馬、相撲、弓射などが行われる)の少し前で、馬乳酒作りが行われておらずアルコールが嫌いではない私は密かに「馬乳酒をいただきにまた来るぞ」と決心をしていました。念願叶って、早7回もモンゴルに行っています。その間、モンゴルの田舎の学校にピアニカや図鑑、パソコンなど持っていったり、またモンゴルの切り絵作家を日本に招聘して展覧会をしたりもしていました。

 そうしている内にフェルトをテーマにした日本とモンゴルの作家の交流目的の旅を企画しようと思い立ちました。なぜなら、モンゴル人はフェルトの民と呼ばれるほどフェルト作りの歴史が古いのです。2000年前からとも2500年前からとも言われています。ちなみに、モンゴル語でフェルトのことは「エスギイ」と言います。

 日本側の作家はフェルトの作家坂田ルツ子さんが最適と考えました。彼女はもう7回も私のギャラリーで個展を開いて下さってます。フェルトというと手芸材料店にある既製のものしか思い浮かばない私が原毛から作り出される芸術的なフェルトの作品に出会ったのは平成5年の坂田ルツ子さんの個展の時。針も糸も使わずに自由な形とポップな色の帽子やベスト等々まさしくウールのマジックがそこにありました。この、楽しい作品は多くの方々に観て知っていただくべきだと以後毎年展覧会を開いてもらってます。坂田ルツ子さんは「染色アルファ」に何度も登場しておられますので御存じの方も多いことでしょう。彼女は、フィンランドで織りの勉強をなさってその後フェルトに出会い、今は主にフェルトの作家として活躍中です。また、モンゴルには1994年NGOの派遣で織りの指導に行かれたこともあります。

 さて、モンゴル側の作家はフェルト作家バヤンドゥーレン女史です。彼女はモンゴル芸術大学の手工芸の先生でもあります。彼女を紹介して下さりこの旅のお世話をして下さるのは、モンゴルと日本の文化交流に熱心なツェベクマ女史です。ツェベクマさんは作家司馬遼太郎がモンゴルに取材に行ったとき日本語ガイドを勤められた方で司馬遼太郎の「草原の記」にも登場しています。興味のある方は彼女の自伝「星の草原に帰らん」がNHK出版から去年出ましたのでお読み下さい。

 というわけで坂田さんとバヤンドゥーレンさんの交流が実現することになりました。また、この旅には伝統的な草原でのフェルト作りとフェルト工場の見学、観光が組み込まれ、私たち一行は関空から暑い00年8月上旬の日本から旅立ったのです。


モンゴル・フェルト紀行

 首都ウランバートルでバヤンドゥーレンさんの個展を観たり観光を済ませた翌日、8時間バスに揺られてウランバートルから西へ340Kmのブルドー区のツァガントルゴイ(白い頭)村に着きました。

 ここで遊牧民で村長のテクシバイエルさんに4日間お世話になります。テクシバイエルさん御家族は子供が8人と長男のお嫁さんと赤ちゃんの大家族です。彼らのゲルの隣に私たちのゲルを建ててもらいました。モンゴルの夏も暑いときは日中30度にもなったりしますが、乾燥しているので爽やかです。そして、夜はストーブがないと寒くて寝られないほど気温が下がります。ゲルはその厳しい気温の変化や強風からも、遊牧民達をやさしく守ります。

 遊牧民の生活を味うとはいえ、食事は彼らのように馬乳酒とチーズ類のみというわけにはいかないので私たちのため特別に用意してもらいます。今では遊牧民が全てそうではないと思いますが彼らは、夏は白い食べ物という前述のような食べ物で冬は赤い食べ物といわれる肉類を食します。夏に羊を屠って食べるのは特別な行事の時のみだそうです。

 夏の遊牧民の生活は多忙です。夜明けと共に羊、山羊を放牧し、馬、牛の乳搾りと大忙し。ちなみにテクシバイエルさんの「五畜」と呼ばれる家畜の数は馬70頭、羊と山羊は計500頭、牛90頭、ラクダは無しでブルドー区では平均的な数とのことです。

 その、忙しい合間にいよいよお目当てのフェルト作りを見せていただきました。フェルト作りの時期は8月の毛刈りを終え秋になるまでの気温の高い日が選ばれます。使用する分だけ作るのです。本来は近所の人応援を頼み、羊を屠って祝う祭事の意味合いもありますが、今回は私たちのため特別ですので家族のみのゲルのトーノ(天窓)用オルフ(覆い)のフェルト作りの実演でした。

毛刈りは年2回、6月と8月に行なわれる。8月は去勢した雄の羊のみ。
 原毛を棒でたたき、汚れを落としながらほぐす。洗毛はしない。ほぐした毛をねじってちぎる。毛の方向を整えるためらしい。毛を積層していく。一層目と三層めはきれいにほぐした毛。間になる二層目はフリースをそのまま挟み使っていた。古いフェルトのマットに積層した毛を置き、木の軸に川から汲んだ水をたっぷりかけ、木の軸に巻き取っていく。

 巻き取った毛を牛革でさらに巻きロープで縛る。軸に滑車を取り付ける。

 草原を種馬が引っ張って走る。このときは15分くらい行っては戻り5回ほど繰り返していた。南ゴビではラクダを使う。また、牛を使うところもある。最近は自動車に引かせることもあるそうだ。

 川から汲んだ水を含ませた原毛をロール状に巻いて、草原の中を馬に引かれて走らせることによって起こる摩擦熱や地熱により、原毛は縮絨されフェルトができます。残念ながらこの日は風が強く気温が低かったため、完全にフェルト化しませんでした。

 社会主義時代、政府が羊毛を統合買収していたため遊牧民の手元にはフェルト作りができる羊毛が残りませんでした。また、伝統催事ということでフェルト作りは禁止されていたのです。ゲル用のフェルトも工場生産の物を使っていたと言うことです。1989年ソ連の崩壊に伴いモンゴルも民主化され徐々に遊牧民のフェルト作りも復活してきました。

 この他、馬乳酒作り体験、羊の解体、本当は冬にする刺し子や縄作り、糸つむぎ等を見せていただき、お嫁さんの琴の演奏も聴かせてもらいました。それから村人が私たちのために特別にナーダムも開催して下さいました。そのお返しにと坂田さんのゲル内でのフェルトワークショップではかわいい羊の人形を作りました。また、ツアー参加者有志の折り紙教室などとツァガントルゴイ村での楽しい一時は瞬く間に過ぎました。

 モンゴルの何処が好きなの?とよく聞かれます。そう、例えば、ゲルには鍵が無くふらりと旅人が訪れても住人が居る居ないに関わらずそこで、旅人は用意されている食べ物を食べて、ベットで寝ていても良いのです。厳しい自然と暮らす彼らの助け合いの精神でしょうか。そんなところが好きなのかもしれません。

 また来年の夏、私はモンゴルやフェルトに興味のある方達をお誘いして、草原に立っていることでしょう。

サエンバエノー(こんにちは)モンゴルと言って。